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2180 概論・エイズ対策史(上) エイズと社会ウエブ版19

2009/12/18 00:18

 

 

 世界エイズデーの前後に何度かエイズ対策について話をする機会があった。その資料として、これまであちらこちらに書き散らしていたものを整理し、エイズ対策の歴史を大づかみにまとめてみた。上中下の3回に分けて掲載したい。

 

◎ 概論・エイズ対策史(上)

 

世界の大きな動きと日常の生活は、切り離されて存在しているのではなく、実は密接に関係している。エイズについて取材を続けていると、私たちもまた世界の大きな流れの中にいると感じる機会がことのほか多くなるようでもある。20年余りのエイズ取材の経験を踏まえ、エイズの流行という世界史的現象を振り返ってみたい。 

 

◇6~7年周期で繰り返される大会議

 

エイズという病気の存在を人類が明確に認識するのは1980年代に入ってからである。米国では70年代末から、謎の病気の流行をうすうすと感じる医療関係者もいたが、公式には1981年6月、米カリフォルニア州で5人のゲイ男性に奇妙な肺炎の症例が相次いで確認されたという報告が米疾病対策センター(CDC)の死亡疾病週報(MMWR)に掲載された。これが最初の症例報告と位置づけられている。

ただし、その謎の病気がAIDSAcquired Immune Deficiency Syndrome=後天性免疫不全症候群)と呼ばれるようになるのは翌1982年のことである。さらに原因となるウイルスが見つかったのは83年、そのウイルスがHIVHuman Immunodeficiency Virus=ヒト免疫不全ウイルス)と名付けられるのは86年のことだ。病気の存在も原因もよく分からない状態から出発して、感染症であることを突き止め、病原ウイルスを特定し、感染の有無を調べる検査の手法を確立して感染経路もほぼ把握できるようになるのに5年もかかっていない。20世紀後半の医学の目覚ましい成果というべきだろう。

一方で、極めて致死率の高い未知の病気に対する社会的な不安は大きく、その不安が流行の初期段階における社会的混乱や政策決定の誤りの主要な原因にもなった。

すべてが分かっている状態で流行が始まったわけではないということは、認識しておく必要がある。

最初の症例報告を起点にして年表をみていくと、88年1月のエイズ対策世界保健大臣会議(ロンドン)、9412月のパリ・エイズサミット、そして2001年6月の国連エイズ特別総会とほぼ7年おきに、各国の指導者が集まり、エイズとの闘いの強化を確認する大会議が開かれている。ロンドン会議では世界エイズデーの創設が確認され、その年の12月1日に第1回世界エイズデーの催しが各地で開かれた。

次のパリ会議(エイズサミット)では共同宣言にGIPA(ジーパ)原則が盛り込まれている。「Greater Involvement of People with HIV/AIDSHIV陽性者のより積極的な参加)」の略で、「計画の検討から策定、実施、検証、評価に至るエイズ対策のすべての段階でHIV陽性者の意見が反映されるようにする」という考え方である。パリ・エイズサミットの時点では「そうなるように努力しましょうね」という程度の約束だったが、その後さまざまな国際会議などで繰り返し強調され、現在では世界のエイズ政策の大原則になっている。

エイズという新興感染症のパンデミック(世界的大流行)を各国が極めて重大な危機として認識していたからこそ、政治指導者が集まる会議が開かれるのだが、同時に、会議を開くと何となくそれで安心してしまう傾向があったことも否定はできない。会議で合意に達した約束は果たされず、6、7年するとまた、政治の指導者が対応策を協議しなければならないほど流行が深刻化していることが分かる。最初の20年間のエイズ対策は、そのようにしてHIV感染の拡大を許してきた歴史ということもできる。

 国連エイズ特別総会最終日の2001年6月27日には、コンセンサス(全加盟国の一致)方式によってコミットメント宣言が採択された。当時のコフィ・アナン国連事務総長は採択の直前、記者会見で「国際社会はこれで、エイズとの闘いのバトルプラン(戦闘計画)をようやく手にすることになる」と語っている。

 

 

◇治療の進歩がもたらす新たな課題

 

 治療の分野では、パリ・エイズサミットから1年あまりが経過した1996年1月、米国の首都ワシントンで開かれた会議で多剤併用療法の劇的な延命効果が報告されている。

現在のエイズ治療では、感染した人の体内から完全にHIVを排除することはできない。HIVの増殖を抑えて感染した人のエイズ発症を長期にわたって防ぎ、発症しても症状の進行を抑えて身体の状況を改善していくことが基本戦略となっている。そのための薬が抗レトロウイルス薬(ARV)であり、複数のARVを組み合わせる治療法が抗レトロウイルス治療(ART)と呼ばれている。

 抗レトロウイルス薬は87年にAZTが世界初のエイズ治療薬として米国で承認され、その後に承認された薬も含め、96年以前にも数種類が使われていた。だが、1つの薬だけでは、薬剤耐性ウイルスの出現や副作用のために長期の効果は期待できないことも、横浜で第10回国際エイズ会議が開かれた94年ごろにははっきりしてきた。

ワシントンの会議から半年後の96年7月、カナダのバンクーバーで開かれた第11回国際エイズ会議では「One World, One Hope(1つの世界、1つの希望)」が標語になっている。治療の進歩がもたらす希望を強調する標語なのだが、途上国の参加者からは逆に「この世界のどこに1つの希望があるというのだ」と強い反発もあった。エイズによる死者は先進国では大きく減少したが、途上国では1996年以降も増加を続けていた。それでも「1つの世界」なのかという抗議である。

2年後にジュネーブで開かれた第12エイズ国際会議では「Bridging the Gap(ギャップを埋めよう)」が標語となった。治療の格差が生命の格差に直接つながる。ヒトもモノも資金も情報も国境を越えて移動するグローバル化の時代の矛盾を座視したままでいいのかという声は治療の進歩を契機に大きく広がっていった。

さらにその2年後の2000年7月、南アフリカのダーバンで開かれた第13回国際エイズ会議の標語は「Break the Silence(沈黙を破れ)」だった。世界で最も多くHIV陽性者を抱える南アフリカでは、多数のHIV陽性者が治療も受けられずに亡くなっていた。

ダーバン会議の閉幕から1週間後の7月21日に始まった九州沖縄サミットでは、エイズを中心とする地球規模の感染症対策が重要議題として取り上げられ、議長国・日本は途上国の感染症対策に新たな追加的資金が必要なことを強調した。同じ2000年の9月には国連ミレニアム総会が開催され、世界の首脳が2015年を達成年とするミレニアム開発目標(MDGsMillennium Development Goals)の策定に合意している。

 

ミレニアム開発目標(MDGs

目標1 極度の貧困と飢餓の解消

2 普遍的初等教育の達成

3 ジェンダーの平等の推進と女性の地位向上

4 幼児死亡率の削減

5 妊産婦の健康の改善

6 HIV/エイズ、マラリア、その他の疾病の蔓延防止

7 環境の持続可能性の確保

8 開発のためのグローバル・パートナーシップ推進

 

 8つの目標(ゴール)からなるMDGsの目標6に「HIV/エイズの蔓延を2015年までに阻止し、その後減少させる」と明記されているだけでなく、途上国ではエイズの流行の拡大を阻止しない限り、8つの目標のどれ1つとして達成できない。

治療の進歩は逆に、死ななくてもいい多数の死が目の前でいま、まさに進行していることを残酷なまでに明らかにしていた。その現実は、エイズとの闘いには政治指導者の強いリーダーシップが必要であること、そして2001年の国連エイズ特別総会に至る20年の間、その政治のリーダーシップが著しく欠けていたことを示すものでもあった。

 

カテゴリ: 話題!  > 話のタネ    フォルダ: エイズと社会 国際感染症関係論

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