概論・エイズ対策史(中)
◇3バイ5計画と普遍的アクセス
国連エイズ特別総会のコミットメント宣言は、全加盟国の賛成で採択されたとはいえ、宣言しただけで実行されなければ絵に描いた餅である。約束をどう実行するのか。そのキーワードが「3バイ5計画」と「普遍的アクセス」だった。
「3バイ5計画」は、2005年末までに途上国で緊急に抗レトロウイルス治療を必要とするHIV陽性者のうち300万人に治療を提供できるようにするという計画である。「05年」の「5」と「300万人」の「3」で「3by5」。国連エイズ特別総会の直後からWHOの担当者らが実現可能性を検討し、03年12月1日の世界エイズデーにWHOとUNAIDSが共同で計画の推進を宣言している。
03年12月の時点で抗レトロウイルス治療を直ちに開始しなければ2年以内に死亡する途上国のHIV陽性者は600万人と推定されていた。つまり、そのせめて半数には治療を提供しようという計画である。こうした目標を無謀とする批判も当時は多く、薬剤耐性ウイルスが増えて流行の拡大につながるだけではないかといった否定的な意見も聞かれた。
だが、2008年末までUNAIDSの事務局長だったピーター・ピオット博士によると、追跡調査では途上国のHIV陽性者の方がむしろ薬はきちんと服用する傾向が強く、耐性ウイルス出現の可能性も先進国と比べ高いわけではないという。戦後間もない混乱期から復興期にかけて、たとえば日本で結核の治療を受けていた人がどれほど新しい薬に感謝したか。そうしたことを考えると、説得力がある調査結果ではないだろうか。
UNAIDSとWHOのまとめでは、3バイ5計画開始時点で抗レトロウイルス治療を受けていた途上国のHIV陽性者は40万人で、世界のエイズ対策支出は47億ドルだった。それが2年後の05年末には130万人、83億ドルに増え、「目標には届かなかったが、治療の普及が現実的かつ有効な武器になりうることは証明された」とUNAIDSは総括している。
さらに2008年6月のUNAIDSとWHOの報告書では、抗レトロウイルス治療を受けている途上国の陽性者は07末時点でほぼ300万人(推定290万人)に達し、「3バイ5」は果たせなかったが、2年遅れの「3バイ7」は実現している。ただし、その時点では、緊急に治療を必要とするHIV陽性者も推定970万人に増え、治療のカバー率は31%にとどまっているので、必要な人の半数に治療を提供するという目標には依然、届いていない。
この「3バイ5」計画がまだ終わっていない05年7月、英国のグレンイーグルスで開かれた主要8カ国首脳会議(G8サミット)の首脳声明は「ユニバーサル(普遍的)アクセス」という新たな目標を打ち出している。「3バイ5」が必要な人の半数には治療を提供しようという構想だったのに対し、「普遍的アクセス」は、治療を必要とするすべての人が治療を受けられるようにすることを目指している。「3バイ5」も実現できないのに、一気に「普遍的アクセス」を持ち出すのはかなり大胆な発想というべきだろう。
グレンイーグルス・サミットの首脳声明は、《治療を必要とするすべての人に対し、2010年までに治療の普遍的アクセスを実現するとの目標に可能な限り近づくためのHIV予防、治療、ケアのパッケージの策定、実行》を約束した。うがった見方をすれば、目先の「3バイ5」の達成が困難なので、時間稼ぎをはかったと見ることもできる。「目標に可能な限り近づく」といった文言がするっと挟み込まれているのは、2010年に目標が達成できなくても「近づく努力はしました」という逃げ道を用意しておくためだろうか。
ただし、こうした目標は、いったん掲げてしまえば後戻りはできない。コミットメント宣言の実施状況を検証するため、ニューヨークで開かれた2006年6月の国連エイズ対策レビュー総会では、より直裁に「包括的予防プログラム、治療、ケア、支援に対する普遍的アクセスの2010年までの実現」が盛り込まれた。対象が予防やケア、支援にまで広がっていることにも注目する必要がある。
◇HIV陽性者推計の大幅下方修正とその波紋
国連エイズ特別総会以降、02年の世界エイズ・結核・マラリア対策基金(世界基金)創設、03年の米大統領緊急エイズ救済基金(PEPFAR)の登場などで、エイズ対策資金は21世紀に入って大幅に増額されてきた。それが治療の普及の大きな原動力となったことは間違いないが、同時に、政治のリーダーシップとGIPA原則の両方の重要性がともに認識され、多様なプレーヤーがエイズとの闘いに加わる仕組みが徐々に形成されていったことも見逃すことのできない重要な変化だった。
UNAIDSとWHOは2007年11月に発表した報告書「HIV/エイズ最新動向」2007年版、および2008年7月の報告書で、世界のHIV陽性者数などの推計を大幅に下方修正した。修正の前と後の推計値は以下のようになる。
(06年末現在) (07年末現在)
HIV陽性者数 3950万人 → 3300万人
年間新規HIV感染者数 430万人 → 270万人
エイズによる年間死者数 290万人 → 200万人
UNAIDSの説明によると、下方修正は主にサハラ以南のアフリカやインドで推計の精度が向上し、流行の現状がより正確に把握できるようになった結果だという。つまり、エイズの流行が終息に向かったのではなく、これまで推測されていたほどには大きくなかったということになる。
なお、2009年11月には08年末現在の新たな推計が発表されている。その最新推計によると世界のHIV陽性者数などは以下のようになっている。
HIV陽性者数 3340万人
年間新規HIV感染者数 270万人
エイズによる年間死者数 200万人
推計手法の向上による下方修正の大きさに隠れて目立たなかったが、実は流行の拡大に歯止めがかかるのではないかと期待できるデータもある。過去の年間新規感染の推計を新たな手法で計算し直したところ、年間の新規HIV感染者数は1996年の350万人がピークで、その後はゆるやかな減少が続いているというのだ。この新たな傾向は、サハラ以南のアフリカ諸国がエイズの流行と闘えるよう国際社会が大きな努力を注いだ効果が曲がりなりにも現れてきた結果と見ることができるだろう。
ただし、それでもまだ、流行が縮小に向かっていると考えるのは早計だ。最新推計でも世界では平均すると毎日5500人がエイズで死亡し、それを上回る7400人が新たにHIVに感染している。厳しい流行であることに変わりはない。地球人口の6割を占めるアジアの流行はまだ初期段階と見られ、いま有効な対策を取ることができなければ、これから感染が拡大していく可能性も極めて高い。サハラ以南のアフリカにしても、現状はまだ、ごくわずかな希望の兆候が見えてきたというレベルにとどまっている。
エイズの流行に関しては、希望はあるとはいえ、将来を楽観できる状態ではない。予防対策の成果があがらず、HIVに感染する人が増え続ければ、治療を必要とするすべての人に対し生涯にわたって服用する治療薬を確保することも困難になる。


by 宮田一雄
3336 ホイットニー・ヒュース…