概論・エイズ対策史(下)
◇「アジアのエイズ再定義」
アジアの第一線の経済学者や医学者、市民社会代表、政治家ら9人の委員で構成されるアジアエイズ委員会がまとめた報告書『アジアのエイズ再定義~効果のある対策を作る』が国連の潘基文事務総長に提出されたのは2008年3月のことだ。
委員会は2006年6月、UNAIDSのアジア地域代表であるプラサダ・ラオ博士の呼びかけで発足し、ほぼ1年半の間に5000点以上の関係文献を読み直し、各国政府やHIV陽性者グループ、エイズ対策のNPO関係者など600人以上からヒアリングを行った。
報告書はその成果をもとにアジアのエイズの流行の現状と中長期の社会経済的影響を分析し、「リーダーシップ」「環境」「資金」「介入策」「コミュニティ参加」「戦略とプログラムの実施」などに関して41項目の提言を行っている。
(注)報告書のエグゼクティブサマリーは特定非営利活動法人エイズS&ソサエティ研究会議が日本語に訳し、HATプロジェクト(HIV/エイズ重要文献翻訳プロジェクト)のブログに掲載している。
『アジアのエイズ再定義~効果的な対策を作る』エグゼクティブサマリー1
http://asajp.at.webry.info/200808/article_1.html
『アジアのエイズ再定義~効果的な対策を作る』エグゼクティブサマリー2
http://asajp.at.webry.info/200808/article_2.html
『アジアのエイズ再定義~効果的な対策を作る』エグゼクティブサマリー3
http://asajp.at.webry.info/200808/article_3.html
『アジアのエイズ再定義~効果的な対策を作る』エグゼクティブサマリー4
http://asajp.at.webry.info/200808/article_4.html
報告書によると、2007年末時点で《約20年前にアジアで最初のHIV感染が報告されて以来、この地域では推定900万人がHIVに感染している。一方、これまでに男性約260万人、女性95万人以上、子供約33万人がエイズ関連の疾病で死亡したと推計されている》という。アジアの流行は国によって形態が大きく異なることを前提としたうえで、報告書は「共通の特徴として重視すべきもの」を以下のように指摘している。
《アジアの流行は主に、感染防止策をとらない売春、薬物注射使用者による注射針・注射器の共用、そして男性間の感染防止策をとらない性行為で広がっている。中でも、アジアで最も大きなHIV感染の拡大要因であり、最大の感染者人口を形成しているのは、社会の「主流」層が多数を占める「セックスを買う男性」である。そのほとんどが既婚者か、やがて結婚する人であるため、夫としかセックスをしないという明らかに「低リスク」の女性もかなり多くがHIV感染の機会にさらされている。こうした女性たちのための効果的な感染予防の方法はアジアではまだ、開発されていない。だが、明らかに必要である》
アジアでは売春による異性間の性感染がHIVの大きな感染経路になっているが、売春客の妻や恋人への性感染、あるいはその女性からの母子感染といったところで、感染の拡大が一応、止まっている。このことは逆に、予防対策の観点からは《感染の高いリスクにさらされている集団のHIV感染を減らす努力》に資源を集中させる対策が有効に機能するということでもある。もちろんこの場合、売春の客である男性の妻ないし恋人に対してもまた、感染の高いリスクにさらされている人々として目配りしていくことが必要になる。
一方で、エイズ対策のもう一つの大きな柱であるHIV陽性者に対する治療の提供や支援に関して言えば、報告書は(1)感染の高いリスクにさらされている人々への偏見や差別をなくす、(2)HIVに感染した人を抱える家庭への負担を軽減する-の2点を強調している。(1)は以前から繰り返し指摘されているが、アジアの事情を考えると(2)の家庭における負担軽減策を重視する視点も大切だろう。
アジアでHIV感染がこのまま拡大を続ければ、2007年時点で推計490万人だった域内のHIV陽性者数が、2020年には1300万人に増え、年間44万人がエイズで死亡すると報告書は予測している。ただし、これは、各国がエイズの流行に危機感を持たず、政治の指導者がエイズ対策分野で指導力を発揮することもなく推移した場合の予測である。
一方で報告書は以下のような予防パッケージを示し、これらの対策が実行された場合には2008年から2020年の間に、新たな感染が500万人分減少してHIV陽性者数は1000万人以下に抑えられ、エイズ関連の死亡が40%減少するとの将来予測も明らかにしている。
・セックスワーカーとその客のコンドーム使用率を80%以上にあげる。
・セックスワーカーとその客の性感染症(STI)を半減させる。
・薬物注射使用者(IDU)の注射針共用、および共用による注射の割合を半減させる。
・男性とセックスをする男性のコンドーム使用率を80%以上に上げる。
◇最後に 日本の現状は
治療に関していえば、日本では貧しくて治療が受けられないような国ではない。HIVに感染していることが早期に分かれば、適切な時期に治療を開始し、エイズの発症を防いで長く生きることが期待でるし、保健所では無料、匿名の検査も行われている。
それでも、厚生労働省のエイズ動向委員会報告では、新しくHIV感染が判明した人の3割前後はエイズを発症して初めて感染が確認される人で占められている。HIV感染からエイズ発症に至る間に平均で10年の期間があると考えれば、発症して初めて感染がわかる人はその10年間、治療やケア、支援のアクセスから遠ざけられていたことになる。
もっと早く感染が分かっていたら、エイズの発症も治療で抑えられたかもしれない。その妨げとなるのは日本の場合、貧困ではなく、社会にいまなお、根強く残るHIVに感染した人、および感染の高いリスクにさらされている人に対する差別や偏見、排除の意識ではないだろうか。差別や偏見の対象にされ、社会的に排除されることに対する不安が、感染を心配する人たちから自らの感染の有無を確認する機会を奪ってしまっているとしたら、それはHIVに感染している人が治療の機会を失うだけでなく、社会の中にエイズの流行に対する関心の低下をもたらすことによって、社会的にも予防の機会が日々、失われ続けているということでもある。
日本国内で治療の普遍的アクセスを妨げる壁を取り除き、そのことが同時にエイズの流行に対し、より困難で勇敢な闘いを続ける途上国の人たちへの支援にもつながるようにするにはどうしたらいいのか。日本ではいま、新型インフルエンザの記事は載っても、エイズの記事はあまり載らない。だが、話題にならなければHIVの感染は広がらないのかといえば、決してそんなことはないはずだ。エイズの取材や報道に長く携わっていると、重大ではあるが、長期にわたって継続する現象を過不足なく伝えるのは非常に難しいということをしばしば感じる。
答えになるかどうかは分からないが、最初に書いた《世界の大きな動きと日常の生活は、切り離されて存在しているのではなく、実は密接に関係している》ということをうまく伝えられるような方法があれば、それがその難しい作業を継続していくための大きなヒントになるのではないかという感触はある。


by 宮田一雄
3336 ホイットニー・ヒュース…